沖野修也: 「諦めずに挑戦を続ける。それが未来を切り開く鍵」

Kyoto Jazz Massiveの30年を振り返りながら、キャリアの出発点、現在の挑戦、そして沖野修也の定義する「良い曲」について説く

Interview: Arthur Ryuichi Beese, Tomotaka Hoshide

沖野修也氏は、日本のクラブジャズシーンを牽引するユニット、Kyoto Jazz Massiveのメンバーとして知られ、30年にわたり、音楽プロデューサー、DJ、そしてアーティストとして多彩な活動を展開してきた彼のキャリアは、ロンドンでの青年時代から始まり、京都、東京、さらにはヨーロッパへとその舞台を広げてきました。

今回のインタビューでは、彼がこれまでに経験してきた挫折と成功、現在進行中の挑戦、そして音楽を通じて描く未来像についてお話を伺います。特に最新作『KJM COVERS』やEchoes Of A New Dawn Orchestraとの取り組みを中心に、沖野氏の創造的な旅路を深く掘り下げていきます。

──沖野さんの出発点をもう一度振り返ってみたいと思います。読者にキャリアの概要と、現在に至るまでの経緯を教えていただけますか?

まず80年代後半、20歳の時に休学してロンドンに行きました。


経緯としてはSoul II SoulのJazzy BとNorman Jay MBE、Barrie K Sharpeが芝浦でイベントをしに来ていた時、イベント後に彼らと話が出来たのだけれど、その時に、「そこまでレアグルーブが好きならロンドンに来い」と言われ、その1か月後には当時行っていた大学をひと月休学してロンドンに向かったわけなんです。

ロンドンでは夜な夜なナイトクラビングをしていた所、クラブの外でフライヤーを撒いてた人から、Gilles Petersonのイベントのフライヤーを貰って、日本で購入したロンドンの雑誌『i-D』の記事で彼の名前を知っていたので、そのイベントに行ったんです。

芝浦で聴いたDJ達もみんな好きなんだけど、Gilles Petersonの掛けた曲が全部ドンピシャで。その時、

「あれ?Gillesが掛ける曲が全部良いって思える俺、DJのセンスあるかも」

って勘違いをして、DJになれると思い込んだんです。

ロンドンのヒースロー空港で「日本に帰ったら絶対DJになる」って思いながら帰って来て、その後弟に「俺Gillesと全くセンス一緒やから、DJなれるかも」って言ったら、「兄貴、なに言ってんねん」って弟に笑われて。「そんなアホな!」みたいな。

当時レアグルーブやファンクがたまたま好きで、レコードは買っていたけど、Gillesのを聞くまで、DJをやろうとは思ってなかったんです。Gillesが掛ける曲は全部良いと思ってたけど、多分会場にいた人は全員がそう思ってたはずなんですよね(笑)。

──それがDJを始めるきっかけになったんですね? その後は日本に帰ってどういう行動を?

地元の京都にはクラブらしいクラブが無くて。大学を卒業してフラフラしてた時に、グラフィックデザインに興味があったので、芸大に行っていた友達と、グラフィックデザインの事務所に就職していた友達と僕の3人で、画廊を借りてグループ展をやったんです。

その時に地元のタウン誌の編集者が自分にカットかイラストだったかの仕事をくれたんですよ。

当時の彼のアドバイスで『自分のポートフォリオを作って、色んな所に持ち込んで仕事を貰うんだよ』って言われました。

当時若かったこともあって、言われた通りにファイルを作って、1件目は何も関係の無い美容室に飛び込みをして、「すみません。これ使って下さい」みたいな営業して「いりません」と。で、2件目のレストランも「いや、いりません」と言われて。

結局3件目の、京都『FISH & CHIPS』というバーのオーナーが気に入ってくれて仕事が貰えたんです。

そのオーナーが、京都に本格的なクラブを作るからグラフィックデザイン一式頼むよという内容で、『コンテナ』というクラブのグラフィックデザインを任されたのが、初めてのグラフィックデザイナーとしての仕事でした。

そこからポスターとか、チケット、フライヤーのデザインをやり始めて。でも結局仕事がそれしかなくって暇だったので、しょっちゅう現地に遊びに行くようになるんです。
オーナーが店長を兼任していたのだけれど、他にも飲食店とかレコード屋の経営をしてたから、「店長をコンテナ専属で置きたい」って話になった時、「沖野君、面倒見良いから店長やらへん?」って言われて。

仕事は無いし、月収も何十万か貰えるので、当時22歳だったんですけど、クラブの店長になったんです。

──そこで実際にDJを始めることになる。

最初はグラフィックデザイナーで、その後クラブの店長になって店を持ったわけですけど、毎週木曜日が何故か空いてて、当時はヒップホップ、レゲエ、ファンク、ハウスみたいなジャンルが流れてたんですけど、オーナーに「僕、実はレコードもちょっと買い集めていて、DJもやりたいので、木曜日にジャズ、ソウル、ラテンを流すイベントやってもいいですか?」って聞いたら、「いいよ、いいよ、やりなよ」って。めっちゃアバウトな人で(笑)。そこから自分のイベントをやり始めたんです。

ある日、ロンドンのジャズ雑誌『Straight No Chaser』の編集長ポール・ブラッドショー、あとGallianoというバンドのラッパー、Working Weekのギタリストが京都にイベントしに来ていて、イベントが終わった後に直ぐにメンバーを捕まえて、「木曜日、僕のイベントの日で、歩いて行ける距離にクラブがあるから、この後来てよ」って言ったら、来てくれたんですね。

ポールが、「東京はジャズのシーンがあるだろうなと思ってたけど、京都でジャズがかかってると思わなかった」って言ってくれて、『Straight No Chaser』でチャートを書き始めたんです。そのせいもあって、後にロンドンの人も「京都には沖野兄弟がいる」っていう認識も出てきて。

その後、渋谷のCLUB QUATTROにGilles PetersonとGallianoが来日した時に、初めてGillesと話せたんです。最初はGillesの事を見ただけだったので、話をしてサイン頂戴って言ったら、”To Kyoto Jazz Massive”って書いてくれて、Gillesにこれ何?って聞いたら、「君たち、京都でジャズを掛けてる人達でしょ?」と。その響きがカッコよかったからユニット名にしていい?って聞いたら、いいよいいよって言って、Kyoto Jazz Massiveって名前を頂いたんです。

──KYOTO JAZZ MASSIVEの名付け親はGillesだったと。

丁度そのころ、Mondo Grosso の大沢伸一君が僕に電話を掛けてきて、京都METROで一緒にイベントやりましょうって話が来たんです。Gillesに会ったころはコンテナの店長を辞めた後で、フリーランスでDJして月収も4万円しか無かった時代です。違うクラブではあったんだけど、METROでMondo Grosso とDJ Kyoto Jazz Massive でイベントやりだしたんですよね。

それが90年頃。91年にMondo Grosso より先に上京して、Mondo Grosso が92年に上京したタイミングで渋谷のThe Roomを作ったんです。

93年ぐらいから海外レコーディング、96年から海外でもDJするようになって、当時Mondo Grosso のマネージャーも7年やったんですが、大沢君がUAとかbirdをプロデュースして売れた後、もう僕のサポートは要らないだろうと事で袂を分けました。

94年にコンピレーションアルバム『Kyoto Jazz Massive』は出してるんですが、2000年にKyoto Jazz Massiveのシングルを、ドイツからリリースして、 2002年に実質的なアーティストアルバム1枚目として『Spirit Of The Sun』をリリースしたんです。

その後、ソロアルバム出したり、Kyoto Jazz Sextetっていうプロジェクトを始めたりして、2021年にKyoto Jazz Massiveのセカンドアルバムを出して、今に至るという訳です。滅茶苦茶後半はしょってますけど(笑)。


──キャリアを通じて、さまざまな困難に直面してきたと思います。もし1つ選ぶとしたら、あなたが遭遇した最も重要なチャレンジは何ですか?

Mondo Grosso のバンドでヨーロッパツアーしたのが、一番のチャレンジかな。レコード会社もお金を出してくれたけど、内心「こんなにお金を使ってリターンあるのかな?」って思いましたもん。

ライブ自体は成功したんだけど、ツアー中はずっとメンバーと一緒にいるから、考え方の違いからストレスもあったんじゃないですかね。

凄いお金をかけてヨーロッパを回って、エージェントから、「次は1000人規模のところでやれるから、ヨーロッパに戻って来い」と言われたけど、バンドがツアーの後分解してしまったのでそれも叶わず......。

それは自分にとってはチャレンジだったし、成功だったけど、自分のヒストリーの中でMondo Grosso の初期のバンドが解体したっていうのは悔やまれることでしたね。

当時ツアーに行く前から、神戸の震災があったのでツアーに行く・行かないでメンバーの中に意見の相違もあったんです。「海外に行ってる場合じゃない。神戸に行ってボランティアをすべきだ」っていうメンバーもいましたし。

KJM EOANDO - Kyoto Jazz Massive

──話は変わりますが、沖野さんにとって今回の作品『EOANDO』は、一言で表すとどういったものになりましたか?

あえて言うと「着地」。

飛び立つんじゃなくて着地点。3年前から一緒にやってるバンドと作品化するという事で、一旦結実。実を結んだ。そういう意味での着地。


──Echoes Of A New Dawn Orchestraとは、なぜコラボするに至ったのでしょうか?

2021年にKyoto Jazz Massiveのセカンドアルバムを出した時に、パリの老舗ジャズクラブ「New Morning」からライブのオファ―があったんです。ブッキング担当の  Etienne Dupuyとは一度The Roomで一緒にDJをした事があって。

で、凄いセンスのある人だから信用はしていたんですけど、日本からバンド全員は呼べないって言われたんですよ。3年前のヨーロッパは往復エコノミークラスで45万円とかだったので、「修也一人で来い」と。

一人で行ってどうすんの?って訊いたら、彼は毎月そのジャズ・クラブで“Echoes Of〜”というイベント シリーズをやっていて、Echoes Of Memphis、Echoes Of Atlanta、Echoes Of Philadelphiaなんかがあり、パリ在住のミュージシャンが、その土地にちなんだ音楽をカバーする企画を毎月やっていたんです。

KJM x Echoes Of A New Dawn Orchestra

そこで色んなミュージシャンを知っていて、修也の為にそのEchoes Of シリーズの中から、ベストメンバーを選んで、Kyoto Jazz Massiveのバックバンドを作るからお前一人で来いって言われたんですよね。


Echoes Of から生まれたバックバンドなのでEchoes Of A New Dawn。僕らのセカンドアルバムが『Message From A New Dawn』だから、それをとってEchoes Of A New Dawn Orchestraっていう名前をEtienneが付けてくれたんです。

ライブをやる時は日本でもいろいろなバンドからメンバーを選抜しているんですけど、パリはEchoes Of A New Dawn Orchestra、日本では僕とSOIL & "PIMP" SESSIONSとか、Cro-magnonとか、A Hundred Birdsとか、ROOT SOULとか、どっちも言ってみたら選抜チームですよね。

上海、シンガポール、バンコクといったアジア地区は日本チームで、ヨーロッパはパリチームって分け方になってます。

日本の場合、サッカーの代表にちなんで“沖野ジャパン”って呼んでるんです。代表選抜だから、招集して、集まる。みたいな。でもパリの方はどっちかというとヨーロッパのクラブチームに僕が一人で参加してる感じ。そういった違いがありますね。Echoes Of A New Dawn Orchestraのメンバーは別名義でJEROBOAMっていう名前で作品だしてて、そのバンドに僕が一人で入っているような感覚なんです。


──Echoes Of A New Dawn Orchestraとのライブは、例えば日本人のみで構成されたKYOTO JAZZ SEXTETと比べて決定的に違うところはどこですか?

Echoes Of A New Dawn Orchestraは基本ディスコやファンクのカバーで、日本チームはもっとクロスオーバー感がある。

A Hundred Birdsはハウス、Cro-magnonはヒップホップの影響を受けてて、SOIL & "PIMP" SESSIONSはジャズ、Root Soulはレアグルーブみたいな感じじゃないですか?

でもEchoes Of A New Dawn Orchestraってフレンチディスコとアメリカのファンクみたいなのに特化してるんです。

Echoes Of A New Dawn Orchestraの一人一人のバックグラウンドも、ガーナ、カメルーン、スペイン、ポルトガル、カリブ、一時期ブラジル人もいたりとか。だから音楽的にクロスオーバーしているのは日本チームだけど、国籍や人種で言うと、パリのチームの方がよりハイブリッドというか多国籍な感じ。ドラムはスペイン人で、ベースがカリビアン、パーカッションがブラジルと結構最強です。

今回のEPにそのディスコっぽいのとか、アフロビートっぽいのが入っているのは、彼らを想定して作っているっていうのがありますね。彼らとライブをやるならこういう曲っていう思いで作ったというのがあります。

──今日、沖野さんがしている挑戦は何ですか? その挑戦に対しての姿勢は、時代とともにどのように変化してきましたか?

まさにEchoes Of A New Dawn Orchestraとのライブがチャレンジ。元々Mondo Grosso の時はマネージャーで、プロデューサーだから裏方っていう所で僕はステージに上がらず、バンドを外から見てた。でも今はバンドの中のメンバーであって、ミュージシャンと同じその舞台に立つわけじゃないですか?

初めてパリでやった時に、僕は一番後ろの位置にいて、DJブースでミキサーとCDJで効果音を出してたんですけど、マネージャーに「バンドのみんながデカいので、修也がどこにいるか分からない」って(笑)。

で、次にステージ前方にDJブースを組んだら後ろが見えなくなる。最終的にやり方を変えようとなって、DJセットを取っ払ってキーボードだけにしました。X型のスタンドだと後方も見えるし、キーボードで効果音、シェーカー、カウベル等のパーカッションを担当。とはいえMCで喋るのは僕なので、1時間半のステージでそれほど効果音を鳴らす事も無い・・・。

そこで次に何をしたかっていうと歌を歌い始めた。曲によってはコーラスを担当して、メインボーカリストが女性の場合、男性のファルセット部分を僕が歌って、歌う曲数も増やして、今はキーボードも取っ払って、シェイカーとカウベルとバッキングボーカル。半分以上は歌ってるかな。

メインボーカルと、女性一人、男性二人の4人編成で今コーラス隊やってるんですけど、時々、女性コーラスが来れない、その上メインボーカルが前の日、飲み過ぎて声でなくなった回で「Still In Love」のコーラスを僕ともう一人の男性の二声のファルセットでやったんだけど、お客さんはもう「ギャー!!」って盛り上がってました(笑)。

バンドでは、MCも英語でやって、歌も歌って、 バンドのオーケストレーション、ソロの長さとか僕が決めて、Que出して終わったり、ブレイクしたりする指揮者的な役割なんです。
最初は後ろの方でボタンを押すだけだったんですけど、ドンドン前に出てやることが増えてきて、そういう「バンドの中で楽器を弾けない人が何をやるか?」というのを追求するのが、僕のチャレンジです。

Louie Vegaもバンドをやってるけど、基本、指揮者ですよね?最初は「修也は何してんの?」って言われてましたけど、今はもう言われないですね。「あー修也!歌ってる人でしょう」みたいな。

──チャレンジャーであり続けるには、精神的にも肉体的にも鍛錬が必要であると感じています。集中力とインスピレーションを維持するための日課、ルーティンを教えていただけますか?

犬の散歩を朝一時間、夕方一時間。それから琵琶湖が近いので、水泳。ここ最近はヨーロッパから帰って来たばかりで、まだ泳いでないですけど、コロナの間は結構ハードに泳いでました。

泳ぐ所まで走って行って、泳いで、帰りは自転車みたいなトライアスロン状態。犬の散歩って歩くだけじゃなくて、走るし、犬と登山したりもしてるんです。山と湖の間に住んでいるので、その地の利を活かして。鍛えているってほどじゃないですけど、普通のDJの方に比べたらかなり身体は動かしていますよ。

──海外にいる時も散歩するんですか?

できないですね。移動と、ライブが終わってメンバーがまだ30代なので飲みに行こうってなったりするので。そして夜が明けたらまた移動なので、身体を鍛える時間がほぼ無い。戻ってきたらお腹ポッコリしてるんですけど。また日々の犬の散歩とかランで直ぐ落としてる感じになる。

──コロナ前と比べて観客の反応の変化はありますか?

ヨーロッパと日本で全く違うんです。ヨーロッパはコロナ以前よりも、より盛り上がってるし、熱気が凄い。僕が行ったところはどこもすごい。全員ではないけど、ヨーロッパの人は多分、「どうせ死ぬんだったら、 人生楽しまないと」と。元々そういうラテン系、例えばスペインとかそうですけど、その思想がより強化されてると思うんです。

ベルリンですらすごかった。ベルリンってテクノとドラッグみたいに言われるけど、ジャズとかソウルで朝6時半まで、しかも全員30代以下みたいな。

で、コロナの後は沖野修也のパーティに2000人くらい来て2時間待つんです。東京で2000人も来ないし、2時間半も待たない。 実は僕にとってベルリンは不得手というか、苦手な地域だったんです。毎回苦労してたけど、今回ベルリンのパーティでロックコンサート状態で遊びに来てくれた人たちが大興奮して。

ロンドンも今年半年で3回のライブをやってますけど、2回Sold Out。ヨーロッパでは僕の音楽に対するニーズもあるし、オーディエンスの反応が日本とは全然違う。

日本に帰ってきたら、僕の勝手なイメージだけど、「またパンデミックになったらどうしよう」とか「お金無いし」とか全然元気がないと思う。コロナの前に来てた割と大人の音楽リスナーって本当に跡形も無くいなくなってしまって。

ヨーロッパは子どもも大人もみんなパーティに来てる。特にジャズシーンは2世代でオールドスクールなジャズのファンと、UKジャズが盛り上がってるからそのファンの融合があって、理想的な状態なんです。

あんまり日本の事を悪く言いたくないし、景気も悪いし、コロナも気をつけなければいけないのは分かるけど、人生に対する価値観が全然違うかなと思います。

スペインに限らず、ロンドン、パリ、最近はブルガリアにも行きました。彼らは景気が良い訳ではないけど、音楽への貪欲さって言うのは日本と比べられない。

Echoes Of A New Dawn Orchestraのメンバーと一緒にスイスでのライブもありました。行き帰りの飛行機代も全部出してくれて、DJとライブセットのギャラは別みたいなのもあります。それでもスイスで共働きの人の月収は200万円ぐらいらしく、若いブッキングしてる男の子は家賃50万の家で各部屋10畳ある4Kに住んでましたね。もうスイスに行こうかな(笑)!

ヨーロッパ行くとアガる。やってやるぞ~!みたいな。日本に帰ってきたら、もうなんなのこれ。俺、何でこんな人気ないのって。京都でもKJM30周年なのに、ライブのオファーは0ですし。

──沖野さんの人生や音楽作りに深く影響を与えたアーティストや曲をいくつか挙げていただけますか?

まずは日野皓正の『City Connection』。日本人のアーティストで海外のクラブに掛かってる人って日野さんが代表。他にも日本のフュージョンとかジャズって注目されてるけど、日野さんは別格です。『City Connection』はメンバーが日野さん以外全員外国人なんですよ。

今Kyoto Jazz Massiveでロンドン、パリのメンバーでやってる形態のモデルケースは日野さんのアルバムだから、自分一人が日本人で、周り外国人って僕からしたら普通っていうか、僕が凄いとかじゃなくて、「もう日野さんも昔にやってるよね」と。

実は、日野さんの息子の日野JINO賢二君が一緒にレコーディングしようと言ってくれた上に「お父さんを絶対呼んでくるから!」とも言ってくれているので。なんとかKyoto Jazz Massive Featuring 日野皓正 and 賢二をやりたいと思っています。

あとはRoy Ayers。自分は初めてロンドンに行った時にはアルバムを買っていて、それから37年間ずーっとRoy Ayersを追いかけてる。Kyoto Jazz Massiveのセカンドアルバムでも1曲弾いてもらったんです。レコーディングは色々な苦労もあったんですけど、僕の夢が実現した形で、Roy Ayersは凄い影響を受けてますね。

それにギタリストのJames Mason。日野さんやRoy Ayers系のフュージョンっぽいジャズファンクやる人で、そんなヒーローである彼側から連絡あって、Kyoto Jazz Massiveとコラボしたいって言ってくれているので、彼の為に曲を書いてるところです。

音楽的に受けた影響を受けた人とコラボして、ようやく継承できるかなって思っています。聞くだけで影響を受けたっていうのはスピリットの継承とは言えないと思っていて、話をして一緒に音出して、同じ時間を共有することがないと、引き継げないものはあると思っています。

Roy Ayersしかり、Pharoah Sandersしかり、森山威男しかり、会って話して、一緒に音を出してって全く違う体験をしてきました。そういう意味ではハービー・ハンコックと一緒に作品を作ってみたいなとは思いますけど、ハードルが高そうですね。

──最近特に聞いている楽曲はありますか?

Nubya Garcia、Joe Armon-Jones、Yazmin Laceyはコラボしたいですね。それにオーストラリアのAllysha Joy。彼らとはみんな仲がいいけど、レジェンドとのコラボっていうのは多分少なくなっていくから、その焦りもあります。

今月もEmma-Jean Thackrayと出会い、Kyoto Jazz Massiveの大ファンらしいので、「なんかやろうよ!」みたいな話もしてるので、まずレジェンドに弾いてもらって、それをリミックスしてもらうのもいいかなと考えてます。上の世代と下の世代ってあまり交流がないから、僕がつなぎ目的な役割ですよね。

その他に最近聞いてるのは、マンチェスターのJasmine Myra。Matthew HalsallのGondwana Recordsから出たサックス奏者です。Gondwana Recordsは結構聴いてますね。同じレーベルのAncient Inifinity Orchestraっていうのがもう大好き。もう曲が良い。


KJM COVERS - Kyoto Jazz Massive

──12月リリースの『KJM COVERS』はどんな内容でしょうか?

僕らが30年してきた名曲のカバー集なんです。実はまとめたことってなくて、初めてコンピレーションを作るんですけど、KJMでは基本カバーはやらない方針で、この先もほとんどカバーは無いと思うんですけど、あえてこのカバー集を作るのは30周年という節目の年で、もう1回このレジェンドたちをどう解釈したのかっていうのを再確認して、次のアルバムにそのレジェンド達から学んだ事を反映させるということを考えています。

だからEchoes Of A New Dawn Orchestraが今のバンドメンバーとのコラボだとすると、このCOVERSが「出発」かなと。

普通、逆だと思うんですけど、カバーが30年の着地って感じがするけど、EPの方が3年間のコラボの着地で、KJM COVERSはこれを踏み台にしてステップアップしていくっていう意味合い。

ここに収録されている曲が、次のアルバムのベース、たたき台になるかな。過去にKJMのベストのコンピレーションはあったけど、カバーだけというのはやってなかったから一回まとめるのが良いかなって。これを聞いてもらうと、僕が次に何をやりたいかというヒントになるコンピレーションになってます。

KJM 30th Anniversary - KJM COVERS Release Live feat. VANESSA FREEMAN

──KJMデビュー30年の節目を迎えましたが、これから挑戦してみたいことや実現したいアイディアはありますか?

これから挑戦したい事は今まで出した曲よりいい曲を作る事。もうそれしかないんです。それしか僕は興味ない。音楽シーンはもちろんチェックしてますけど、人と比べてどうっていうのはなくて、今まで自分が作ってきた曲よりもいい曲を作る事しか頭にないです。

僕は曲を作る時、全部iPhoneに吹き込んでるんです。メロディラインやベースライン、ホーンセクション、ストリングセクションのアイディアを全部iPhoneに入れてるんですけど、今回ヨーロッパ滞在中に吹き込んだものが800曲ぐらいある(笑)。

多分、使えるのは10曲も無いと思いますけど、とにかく曲を形にしたい。日本人で海外へそんなに行ってる人はいないので、羨ましがられるじゃないですか?色々苦労もありますが、他人から見ると派手にやってるなって見える。でも、ヨーロッパでライブすることは当たり前で、僕としてはもっといい曲を作らないと、こんなんじゃだめだみたいなモードなんです。しかもバンドでまだアメリカに行けてないし南米も中南米も行ってないし、アフリカも行ってないし、呼んでもらうにはもっといい曲を書かないと。

──もっといい曲ってどういう基準なんですか?

僕の場合、良い曲ってチャートとか再生回数じゃないんです。一応iTunesナンバーワンGet!とか、Traxsource 1位!とかアップしますけど、それはプロモーションの一環。曲を出しただけだと「ふ~ん」で、1位獲った!っていったら「え、聞いてみようかな」っていう人は残念ながら多いんです。

ちょっと自慢っぽくって、本当は嫌なんですけど、1位になったって言わないと聞いてくれない人向けにあえてアピールしてます。Spotifyの再生数も僕だと100万〜150万マックスですけど、1000万とか1億回再生みたいな曲がいい曲かっていうと、そうじゃない。

僕の中で良い曲の定義は3つ。1つは尊敬するDJ。有名でなくても僕がかけてほしいなっていうDJがかけてくれると、僕的には合格なんです。

作った曲がかけてもらえない。今好きなDJ達はみんなラジオ番組を持ってるけれど、今回1曲も使われてないってなると焦る。僕と好みが全く一緒ではないから掛けてくれないこともあります。ちなみに今回のEPは残念ながらGillesにも掛けてもらってないです。出発点はGillesでしたけど、今はずいぶん違ってきて、自分のスタイルがあるんでそこはしょうがないかなと。

2つ目は、実際にライブで演奏した時のオーディエンスの反応。自分が満足できる反応が返って来た時は自分の中ではいい曲。だからパリで「Power」という曲をやった時のお客さんの興奮は凄かったとか、「Get It Together」は外したことがないので、「やっぱこれ好きだよね。俺も好きだしみんな好きだよね」って自分のオーディエンスと合意が出来た時はいい曲と言える。

3つ目は長く愛される事。例えば「Substream」を出したのは2000年あたりなんですけど、未だに色んな人が聞いてるし反応も良いし、「Substream」ってSpotifyの再生数も多いけど、再生数多いから良いっていうよりかは、長さ。「Still In Love」もカバーですけど、2011年に出したから13年。今もあの曲を聞きたいって人が多いから、長く愛される事だなと。

そういう意味では今回のEPがまだ良い曲かどうかは僕にも判ってないです。Gillesがかけてないし、半年しか経ってないから、生命力があるかどうかまだジャッジできないんですよ。今の所DJでかけた時にライブの反応がおおむね反応がいいんで、自分的には合格です。

──最後に、読者にメッセージをお願いします。

Never Give Up。僕、なんだかんだやれてるのがラッキーっていうのもあるけど、しがみついてるっていうか、なんとか生き残ってやろうって思って、自分なりにあがいてる部分もある。コロナの最中はもう辞めて、造園業に転職しようかなって思ってたので。でも止めずにやってると、作品を出せたりとか、海外からの引き合いがあったりとか。

Etienneがパリにおいでって言ってくれなかったらやれなかった。日本では全然需要が無いし。東京と京都でライブやったんですけどその二回だけでライブが終ってしまったので。ヨーロッパはセカンドアルバムだけでも3年ぐらい需要があってそれもあって、早くEPを出さないとという気持ちはあったんです。

ロンドンなんて同じセットリストで2回やっていて、Sold Outで皆見れないので、逆に同じのやってほしいって言われるんです。前回見れなかったから前回のセットでやってほしいっていう人もいるので。それぐらい音楽に対する熱気というか、渇望してる感じですね、コロナの間にそういう体験が無かったから。海外も行けなかったから、日本から修也が来た!って大歓迎で。

諦めるのって簡単じゃないですか? 諦めないってすごい難しいことで、難しい事にチャレンジしてる人しか生き残っていけないと思うんです。楽な方に行くと、リターンも無い。Mondo Grosso も初期のバンドは解散しちゃいましたけど、ヨーロッパに行った経験が自分の中で活かされていますしね。

今バンドでツアーする時、メンバーと年齢差が20歳ぐらいあるけど、自分に取ってはまだあの頃の気持ちがあって、全然大変だと思わない。むしろMondo Grosso がバンド活動をもし存続していたらこういう形だったのかも、みたいな事は考えますね。



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